sp: こんなもんの成功に10年かかってどうする。
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sp: 囲碁におけるパスの意義
前回のエントリー( http://tumblr.com/xzt5qs3yu )では、オセロに似たルールを採用することによって囲碁の厳密な説明を試みた(オセロ碁)。
・相手が打てない場所には自分も打ってはいけない
・打てる場所があるうちはパスなし
・双方打てる場所がなくなったら終局
・終局時に相手の石をたくさんとっている方が勝ち
・その他の基本ルールは普通の囲碁に準ずる
今回は、中上級者が打つ日常的な囲碁ではどうしてパスできるのか(できるようにしているのか)を考えよう。まずは日常碁のルールを確認しておく。
・いつでもパスしてよい
・双方パスしたら終局
・終局時に、大きい陣地を持っている方が勝ち
オセロ碁でパスを許すと後手必勝になる。囲碁では後手にハンディキャップが与えられており、終局時に6目半のポイントが加算されるからである。後手は1手も打たずにパスをするだろう。
一方日常碁には陣地という概念があって、これは前回エントリーでいうところの「ゲーム最終盤は無駄手の連続になる」現象を避ける役割を果たしている。図4のCのように、誰が見ても「×を置いたら全滅してしまう」ことが分かっている領域を◯側の「陣地」と呼ぶ(*1)。
陣地という概念があるとパスを導入する意味がでてくる。日常碁で後手が1手も打たずにパスをしようものなら、先手は7目の陣地を作ってからパスをするだろう。だから自分の陣地を増やせるうちは(あるいは相手の陣地を減らせるうちは)パスするわけに行かない。そして陣取り合戦が終わり、自分か相手の陣地内しか打つ場所がなくなった時(これを飽和状態と呼ぼう)には、打つよりパスするほうが明らかに得である。
さてここで舞台をオセロ碁に戻そう。オセロ碁においても、飽和状態までは日常碁と全く同じ進行をたどる。なぜなら、陣地という概念はなくても、陣地らしきところに入っていくのは後回しにしたほうが戦略上よいからである。そうして飽和状態になると、相手の陣地に入っていくか自分の陣地を埋めていくかすることになる。
相手の陣地に入っても意味がないことは、前回エントリーの図5下で既に述べた。だからまずは双方ともに自陣を埋めていき、陣地が狭い方が先に打ち尽くす。打ち尽くした方はそのあと敵陣に入っていき石をとられるが、その数が「日常碁における双方の陣地の大きさの差分」に対応していることに注目してほしい。日常碁では暗算で決着するところが、オセロ碁ではアゲハマ(*2)となって現れるのである。
要するに、オセロ碁ルールを採用しても、日常碁ルールを採用しても、結果は同じになる。以上の議論により、初心者同士でも問題なく遊べる厳格なルールとしてオセロ碁が有効であることと、ただでさえ時間がかかる囲碁のプレイ時間を短縮するのに「陣地」と「パス」という要素が役立っていることが言えると思う。
(*1)・・・もちろん、×側がそれを陣地と認めなければ陣地ではない。その場合、実際Cに×を置いてみて、全滅するかどうか確かめることになる。ちなみに、陣地を構成している石団は無敵扱いとなる
(*2)・・・取った石のこと
sp: 囲碁を打つ時の指針 - オセロとの類似性から -
囲碁を始めたいが敷居の高さが半端ないというtweetを見て、ちょっと初心者むけの指針を書いておこうと思う。
白を黒で囲めば取れるということは何となく分かるが、何も置いてないまっさらな盤を見て、何を目指して打っていけばいいの?と途方にくれる気持ちはよくわかる。オセロであれば初めから4つの石が置いてあり、打てる場所も限られているから迷わない。とにかくたくさん取りたい(コマを引っくり返して自分の色にしたい)と思ってやっていればとりあえずゲームは進行する。
そして盤の隅を取るフェーズがやってくる。隅の石は相手に挟まれることがないので無敵である。隅の石から縦あるいは横に自分の石がつながったとしたら、それら全体(これを石列とよぼう)も無敵になる。無敵の石がだんだん増えていく過程では、相手が取れる石はどんどん減っていく。オセロでは、打てる場所があるうちは、それがすぐさま取られてしまう石だろうと打たなければいけない。かくしてゲーム最終盤は(負けているほうにとって)無駄手の連続になる。
さて、囲碁はオセロによく似ている。オセロは石列を挟み込んで取るのに対し、囲碁は平面的に囲い込んで取る。例えばこんな感じ。
× 図1
×◯×
×◯◯×
××
◯の集団(列ではないので石列ではなく石団と呼ぼう)が×に囲まれている。この状態になったとき、オセロでは◯をひっくり返して×にするが囲碁では盤上から◯を取り上げ、×側の得点とする。実際には白黒交互に1手ずつパラパラと打っていくのでこんなにぴったりと網にかかることはないが、囲碁もオセロと同様に「打てる場所があるうちは打たなければいけない」(*1) ので、いつかは相手の石が中に入ってくると思って網を張りながら待つことになる。
そして囲碁でも、ゲームが進行すると無敵石が出現する。囲碁で相手の石団をとるには、その周囲を隙間なく網で覆わないといけないが、ルール上それが不可能な形がある。例えば以下の◯。
図2
××××××
×◯◯◯◯◯×
×◯A◯B◯×
×◯◯◯◯◯×
××××××
相手がこの石団を取ろうと思ったらまず周囲をみっちり×で覆うことになるが、空いているマスAとBがあるので取れないのである。もしBに◯があれば、相手はAに×を置いて石団すべてを取ることができる。A地点は周囲をみっちり◯に覆われているので本来はそのような場所に×を置くことはできないのだが、Aに×を置くことでその地点を囲っている石団を取ることができる場合は例外として許される。
しかし、AもBも空きマスである場合には、×をAに打ってもBに打っても1手で◯石団の周囲を埋め尽くすことができないため例外扱いされない。よってこの◯石団は無敵なのである。オセロの無敵石と同じように、囲碁の無敵石も、仲間の石がくっついた場合にはそれら全体が無敵石になる。
ここであなたは疑問に思うだろう。「では、まず無敵の石団を1つ作り、そのあとは必ずそれにくっつくように石を置いていけば、1つも石をとられずに済むんじゃないか?」確かに囲碁もオセロと同様に「たくさん石をとった側が勝ち」のゲームである(*2)ので、そのような戦略をとれば少なくとも負けることはないように思われる。
しかし、そうではない。例えば×が盤の右下でノロノロと無敵石団巨大化作業に取り組んでいるとする。
図3 ↑
××××|
←××× |
×× ×|
ーーーーーーーーーーーー
一方左上では以下のような配置ができていたとしよう。Cは、2つの空き列からなる空間である。
ーーーーーーーーーーーー
| C
|
|◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
|図4
無敵石は作らず、Cに×が入ってくるのを待ち構えるというのが◯側の戦略である。経験上、このように狭い空間の周りに◯による網が張られている時には、Cのいずれかへ×を置いても、◯側が正しく応じれば×は無敵石に成長できない。つまりC中の×はいつか全滅してしまうのである。
さて、上図以降の進行をシミュレートしてみよう。右下からは×の無敵石団が勢力を伸ばすが、長方形をだんだん大きくするような成長の仕方をすると仮定すると、これが左上の◯の石団にぶつかる頃には、Cは盤の上側全体に広がっているだろう。
|ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー|
| C |
| |
|◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯|
|[×の無敵石団がぎっしり]
|…………………………..
|……………….. 図5
|……..
ほんとうはこれだと×の数が多すぎるが、それでも×側は負けてしまう。この局面になったら両者ともCに石を置くよりないので×はやむなく中に入っていくが、先に述べたようにそれらは全滅してしまう。そして◯側は、×を全滅させたあとに悠々、◯全体を無敵石団にすればよい(図2のように空きマスAとBを内に持てばいいのだ)。
×の第一投入部隊が全滅し盤上から消える直前、Cには同数の◯と×がある(交互に打っているのだから当然だ)。そして第一投入部隊が全滅すると、それらが置いてあったマスは再び空きマスになる。「打てる場所があるうちは打たなければいけない」に従って、×は泣く泣く第2部隊を投入し再び全滅する。第3部隊を投入する・・・以下同様。オセロのように、「かくしてゲーム最終盤は(負けているほうにとって)無駄手の連続になる」。
このシミュレーションは囲碁の戦略を教えている。つまり、無敵石団を拡大する方法は確かに確実だが歩みが遅い、だから無敵になるのは後回しにして、広い領域Cを囲むような網を素早く展開せよということなのだ。
囲碁はオセロと同様の石取りゲームであり「無敵」が重要な概念になっているが、ある石団が無敵状態なのか否かを判断するのがオセロより難しい。また図4の◯のように、定義上無敵ではないけれども両者最善を尽くして交互に打っている分には取られない石団があり、ある石団がそういう類に属するかどうかを判断するのはさらに難しい。しかしそこが囲碁の魅力である。
(*1) ・・・中上級者同士の対戦では、打てる場所がある状態でも終局する。しかしこれは、オセロの最終盤に現れる「無駄手の連続」を回避するための追加ルールだと思ったほうがいい
(*2)・・・ゲームの本質を変えずに勝ちの定義を変えることができる。ここではオセロに近い定義をとる。この定義のもとでは、無敵石団に含まれる空きマスAとBには、たとえ自分の石であっても置いてはならない。
sp: 疑問を封じ込めるという問題
世の中には二つの教えがある。1つは、何にでも疑問を持ちなさいということ。もう1つは、若いうちは疑問なんか持たずとにかく体に基礎技術を叩き込みなさいということ。
前者は老若男女だれにでも分かりやすい。疑問に感じたことは放ったままにしないで本で調べるなり人に聞くなりしたほうがよい。たしかに正論のように聞こえる。
一方後者は、若い人がこれを聞いたら、教える側のエゴだと思う人が結構いるだろう。疑問に答えられないからそういうんじゃないかと。でもこれも正論なのだ。読書を例にとれば、それぞれのページに出現する疑問な箇所にいちいち足を止めるより、さっと通しで読んでから2周目に入ると、1周目で疑問に思っていたことが結構な割合で理解できるようになっている。つまり、若いうちは読書でいうところの1周目にあたるというわけだ。
さて、前者と後者は両方正論ということになってしまった。どうしたものか。ということを考えたい。
ちなみに僕は前者のタイプだ。すぐに疑問が浮かんでしまい、それを解決しないとモヤモヤして先に進めなくなる。だから安直な考えとして、なるべく根本的な学問を修めようとした。それは物理学だったが、勉強しているうちにさらに別の疑問が生じてしまった。意識などの、客観的再現性のない類の問題とか、その他もろもろだ。
それが単に難易度的に高レベルというだけで、その時点での勉強を続けていれば問題解決に近づくと少しでも想像できるのであれば、その道から外れようとはしなかったと思う。現代科学は基本的に、進めそうな道を着実に進むという方法論をとっているのであって、本当に気になっているところから取り掛かることはしないのだということを、その頃知った。
もちろん世界には、本当に気になることを黙っていられる人たちしかいないわけではない。哲学とかいう分野には、僕にとって本当に気になることを含む問題を、やけに複雑な言葉を使って議論している先人がたくさんいる。でも別に、仲間を見つけたという気分ではなかった。議論する目的に共感が持てなかったり、範囲が広すぎたり、人間的寛容さに欠けるように見受けられることが多かったりと、理由は色々ある。
僕の20代は、疑問を封じ込める期間だった。ひょっとすると30代もそうなるかもしれない。大変な若さで才覚をあらわし、専門の世界で有名になってしまう人たちは、小さい頃から彼らの分野における問題を考えること(あるいは実践すること)に非常に面白みを感じたのだろうと想像する。興味に取り憑かれてしまうことが、疑問を封じ込めるための最適な環境なのだ。
でも強情な人種はそうはいかない。どう指しても一局などということは、将棋でなら言えるが人の一生にまで言えることではない。疑問を封じている時の人間は、少なくともその行為自体によって不満を感じていることになる。若いうちは疑問を抑えろって、言うとおりにしたら、その疑問が大人になるまで保持される保証がどこにある?もっと言えば、その前に死んでしまうかもしれない。
若いうちに疑問を持つか持たないか、そんなものはバランスの問題だというのは簡単だ。でも、疑問を持つ系の人とそうでない系の人の区分は現実に存在し続けるだろう。そのとき、前者が大人になっても疑問を持ち続けていたなら、若い時には必要と思えなかった基礎技術の習得をその時点から目指すのも全然アリだということを言いたい。見方によってはそのほうが効率的だ。邪魔をするのは、人の一生は決まりきった順序の社会的イベントで構成されるべきだという古臭い考え方ぐらいしかない。
sp: 非難に対する耐性
web2.0の時代になって、人が書いた文章に対してリプライやコメントをするのが簡単になる一方で、非難するのも簡単になってきた。
人間は非難に弱い。むしろ議論に自信のある人ほど自分が正しくなければ満足できないから、何はともあれ勝つという前提を置いてから反撃の理屈を組み立てる。
ところが、負けるのは嫌だという気持ちは長期間における上達のモチベーションにはなっても、眼前の勝負の内容をよくする方向には働かないことが多い。そもそも議論は自分が犯した間違いを修正してくれる可能性を持つものであり、全ての議論に勝というとすること自体矛盾している。相手が弱かった時こそ落胆すべきだ。
非難に対する耐性は議論をする上でかかせない。特にあまりよく知らない人からの非難に対しては微妙なニュアンスが分からないから、その発言が自分にとって有害か無害かという2極化に走りがちだ。そして有害と受け取った時には、身を守るために攻撃をやり返すか、てきとうに応対してさっさと切り上げることになる。
耐性とは、しばしば管理された鈍感さであり、攻撃が急所に直撃しないよう的の中心をそらすことである。非難している人間は、あなたを非難すること自体が目的なのではない。単に黙っていられない性格というだけだ。
だからまず、相手が非難している対象はあなた自身ではなくあなたが述べた内容(あるいはその一部)に過ぎないことを意識したほうがよい。あなたと「あなたがかいた文章」を分離し、相手との中間にぽんと置く。等しい距離でその文章について意見を述べ合う。文章が正しいか間違っているかなんて議論のあとに決まればいいことであって、戦っている最中にゴールを定める必要なんて全くない。
非難に負けたくないという気持ちは、公開議論の場では特に高まる。ところがその場合も、勝ちにこだわらず眼前の理屈に集中する姿勢は、周りの人間に分かってもらえる。双方が単に勝ちに行くだけの議論というのは外から見ると退屈なのだ。
ただ断っておくと、私自身、非難に対する耐性を十分に持っているわけではない。でもそれを持ちたいとは思っている。文章なんて、非難を怖がって慎重に慎重に書いていても仕方ないのである。そりゃある程度は話のつながりを整えないといけないが、対戦相手としては自分より他人のほうが役に立つことは、一人二役で対戦ゲームをしたことがある人なら分かるだろう。
ブライアン・グリーンが語るひも理論 | Video on TED.com
sp: なんちゅう力強いスピーチ!
sp: う〜ん、シェアウェアか
(via starchart)
sp: ふぁぼりすぎはいけないと。
sp: ヒトの繁栄について
もし人類が未来永劫に渡って絶滅しないことが保証されていたとしたら。
例えば仮に人間個人が、グーグルのBig-Table上の単一オブジェクトみたいな存在になり、しかもそのインフラが宇宙の隅々まで行き渡っており、別の宇宙にある同様のインフラと通信・同期することすら可能であるとすれば、だいたい「絶滅しない条件」が整っていると言えるだろう。というかそういうことにしよう。そうなった時、 ーもはや彼らは人間と呼べない感じになってしまっているので、仮想人間と呼ぼうー 仮想人類は「何のためにここまで増えたのか?」と思わないだろうか?
ここで、仮想人類は何人の独立した仮想個人から構成されるのがベストか?という問題を考える
{*「独立した」というのは、分散データ(バックアップ)を含まないという意味。「仮想人類」は、仮想人間の一人一人(仮想個人)から成る集団のこと }。
素朴な言葉で言えば、世界が100人の村であるのと、数億の国の集合であるのとではどちらがいいか?ということである。
なぜ増える必要があるのか?この疑問に対する冷静な回答の一つは、「全体として増えるのは単なる結果であって、個別の生殖活動が行われる動機は、個人的とさえ言えるほど小さい理由である」というものだろう。そうだとすれば、人類は何も考えずにその規模を拡大していることになる。しかしながら、そのことが問題になるのは、単にヒトの生息環境として用意されているのがこの地球しか今のところないからである。
つまり私たちは、非常に差し迫った環境問題以外については、「何も考えずに規模を拡大している」ことに対して何の内省も行っていないのである。仮想人類の文脈では生息環境の広さに関する制限はないので、この「内省」が行われやすくなると思われる。何人の村ならいいのか?100人の村より60億人の村のほうが、あるいはもっと大人数の村のほうが幸せな社会だと言えるのか?逆に、何人であろうと
大した相違はなくて、むしろゼロでも価値は同じなのではないか、といったような内省である。
このように考えるのは、あまり現実主義的ではないように映るし、実際その通りだと思う。しかしながら、人生に意味はあると考える人々にとっては、この問題は無意味ではないだろう。何しろ、一人一人の人生にオリジナルな意味があるのなら、100人の村より60億人の村のほうが、意味の総量は多くなるに決まっているのだから。
そう考える一方、多ければ多いほど良いとも思えないだろう。よって、「人生には意味がないことにする」か、「(ゼロから無限の間において)ちょうど良い繁栄規模はこれである、という説得力ある説明を見つけだす」か、「別のシナリオを考える」か、以上のうちいずれかの方針を採って考えを進めなければならない。
個人的には、最後の選択肢を考えているが・・・気が向いたら書くことにする。